自灯明が法灯明

佼成新聞8月号の8ページの光祥様の記事には目から鱗が落ちました。AIの時代に佼成会員がどうあるか、という壮年の方の質問に対してのお答えでした。少し長くなりますが引用します。

「自灯明・法灯明」という教えも、皆さん「自灯明”と”法灯明」だと思っていませんか。自分を灯明として、教えを灯明とする。だけど私は「自灯明”が”法灯明」だと思っています。自分の中に働いていない真理を使うことはできないので、お釈迦さまは「無記」と言って、自分の人生や幸せに関係ない概念を考えるのではなく、生きている私たちの中に働いている真理が大事だと教えてくださっています。

なので、自分のなかを深く見る。「自我」じゃなくて「自己」を見ていくことが大切です。「我」をたくさん抱えている私が、自分を灯明にするのは大変ですが、その大変さを味わいつつ、「これじゃないんだな」と一つひとつ確認しながら、自我を自己にしていく。そうすると「自灯明と法灯明」ではなくて、「自灯明が法灯明」になっていくのだと思います。

「自分の中に働いていない真理を使うことはできない。自分の人生や幸せに関係ない概念を考えるのではなく、生きている私たちの中に働いている真理が大事だ」ということについて、佼成会の経営者の集まりの「六花の会・第三回結集の集い」に際して、それまでは、「仏教精神に学ぶ経営者の集い」だったのに対して、「仏教を生きる経営者の集い」にしたらいいのではと光祥様が提案されたことを思い出します。その時もなるほどと唸りました。自分の外にある真理ではなく、自分の中に働く真理にフォーカスするということだと思います。

さらに、「自我を自己にしていく」。これが難しいところです。光祥様も大変だとおっしゃっています。ここがポイントだと思います。ここをどう実践的に深めていくかだと思います。

そのヒントとして、光祥様は「心の中にあるものを吐き出すことによって、自分を回復させる場所が佼成会」と、手放せないものを吐ける安心の場が必要で、それが佼成会ではないかと、示唆を下さいます。

「自我から自己へ」、この修行のことで、若い頃、村瀬雅貞名古屋教会長に仕えていた時のことを思い出しました。この方は天才的な人で、実に明快に楽しく法華経を説かれる方でした。尊敬する人の一人です。

村瀬さんは、いつも「凡夫の世界を先に説くんだよ。その後に仏の世界を説くんだ。なぜならみんな凡夫の世界の方を体験しているから、分かり易いんだから」と。

例えば六波羅蜜を説く前に、六邪心を説くんだよと。慳貪・驕慢・瞋恚・懈怠・散乱・愚痴を説いてから、対極の布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の法門を説くんだよと。

「自我から自己へ」の実践の手すりになるかなとも思います。

光祥様は結びに、「人間は面白いし、仏教も法華経も面白い。教えのなかには誰かの素晴らしい言葉が書いてあるんじゃなくて、私の中に働いている真理が書いてある。そういう視点で法華経を読むと、興味深く読めるんじゃないかな」と、お勧め下さっています。

実際に「自灯明が法灯明」を意識しながら、自分の中に働く法という視点で、法華三部経を読誦するといろいろな発見があって面白いですね。

(写真上3枚  ドラゴンカヌーのチーム「急がず休まず」の太鼓のお役で自灯明)