無常法に認識に思う

会長先生米寿の年ももうすぐ一区切りとなろうとしている。

折角だからと、26年間お側でお仕えした思い出の整理のために、青年本部長時代の手帳を引っ張り出して、当時のことを思い出している。本当に激しく東奔西走していたなあと、我ながら驚いている。

青年本部長4年目の平成13年当時、会長先生は「仏教の本義とは何か」を青年と一緒に考えようと投げかけられていた。特に「無常法の認識」ということをさかんにおっしゃられていた。私もすごく意識して無常法の認識にアンテナを立てていた。そのことは前号で呟いている。

1月7日のご親教で、「新生・創造は無常の同義語であるが、明るい側面が強調されるので、新生という言葉を使うのだ。」そして「宗教の役割は人生の有限性、一回きりであることを伝えること、つまり死の智慧を通して転換を図ること」と教えて下さっていた。

さらに、仏心とはあらゆるものに感謝することである。だから新しい食前感謝の言葉に「自然の恵みに感謝して」と入れた。自然と一体になっていくことが大事。だから青梅の自然の中で人材を育てたい。室内でものごとを考えると小さくなる。会議も青空の下で歩きながらやるといいとも教えて下さっていた。

3月5日の創立記念日には、「無常の法イコール永遠の新生」である。刻々と我々は新生している。しかし自我にとらわれているから不平不満の人生になってしまう。新生していると、苦はおのずから解決されているとも述べられた。

そして、「認識とは信ずると同義」とも教えて下さっていた。実は私は、この「認識」という言葉にずっと引っかかっていた。会長先生にこのことを何度もおうかがいをたてた。「無常法」は何となくわかるが、それを「認識する」とはどういうことなのか。そこで、悩んで悩んで、最終的に「頭と心と身体でつかむこと」と捉えていますが、いかがでしょうかと尋ねたところ、何となくいいのではないかとお墨付きを頂いたように思っていた。しかし、この度、はっきりと「認識するとは信ずること」と教えて下さっていたことに気づいた。信仰の世界を教えて下さっていた。

それで思い出したのだが、従来の言葉を使うとみんな固定観念で捉えてしまうので、あえて開祖さまと違う表現を意識していると、どこかの場面でおっしゃったのを思い出した。

光祥様も時々同様のことをおっしゃるのは、会長先生を倣っておられるのではなかろうか。真実とはそのように伝わるのではないだろうか。

最後にこの日の説法の中で、ミンツァオさんという方から会長先生に「開祖様から最も深く学ばれたことは何ですか」とインタビューされて、「明るさかな。表情・ふるまい・笑顔などに……。私は暗い方ですから」と答えたと、お分けくださった会長先生の正直さは一貫されているなあと実感した。