50年のときを重ねて気づいたこと

さる4月5日から10日まで、フレンドシップタワー50周年特使団参加のため、フィリピンに行ってまいりました。 

 真夏のフィリピン、日中は摂氏35度くらいまで上がり、日差しが強く、太陽のエネルギーを一杯戴いてきましたので、周囲の方は心配してくださるのですが、かえって元気を頂いて参りました。

さて、本会は1973年に第一回青年の船を就航し、約500人の青年がフィリピンを訪れました。20歳の私も第一回青年の船に参加しておりました。モンテンルパの日本人墓地が荒れていました。先輩の特に野田頭さんがみんなで募金して公園として整備しようと、帰りの船で呼びかけてくれました。それがモンテンルパ墓地公園整備募金となり、当時の庭野欽次郎青年本部長が現地の方の話を伺って、一番激戦地で「死の行進」によって日本人の悪名が高く、反日感情の強いバターン半島に向き合うことを決意されました。

そして、死の行進のゼロキロメートル地点に日比友好のためのフレンドシップタワーを建設しようとフィリピン平和募金が始まりました。それが後の節食運動そして一食運動につながりました。当時は普門館で各支教区の青年大会が行われていました。先輩がたが壇上で呼びかけ、私はロビーで募金箱を持って立つ係りでした。

1975年4月8日のフレンドシップタワー建立式の使節団は、全国の青年部長さん方が参加されていました。私も大学生でしたが、募金活動に貢献したということで、他の大学生と共にメンバーに入れて頂きました。

片桐克修青年副本部長さんが、建立式には鐘が間に合わず、鐘が無いままで除幕式を行ったことをよくお話しされていました。意義がよく分からなくて参加している人がいると厳しいお言葉でした。その一人が私です。浜辺で、みんなでどんな気持ちで来ていたのかサンゲの法座が開かれました。正直私はなんで?しょうがないじゃないか。この程度でした。ただ、夜に鐘が届いたぞといわれ、夜中にみんなで、鐘を吊り上げるロープを引っ張ったのは感動しました。とても時間がかかったのを覚えています。そして翌日に再び出かけて一人ずつ鐘を突いたことを今でもはっきり覚えています。

そのとき浜辺のリゾート施設のレストランで、現地の若い方々と楽しく交流したことは懐かしさと共に鮮明に覚えています。振り返ってみるとその時のメンバーはバンソンママさんの娘さんアニーさんやその友達だったと思います。そのメンバーが中心になってBCYCC(バターン・キリスト教青年会)が出来上がりました。そして奇しくもBCYCC創設者のジュリーさんがこの度は迎えてくれました。2月に急逝されたBCYFI財団理事長のアニーさんのお姉さんでもあります。

以来50年間のRKK青年部とBCYCCの交流は、戦争加害者と被害者の両者の和解プログラムとしては最高のものだと思っています。両国の関係者・先輩の方々が努力してくださった賜物だと思っています。このことは共同通信社が発信してくださり、東京新聞に掲載され、全国に伝わりました。これは一つの証明ではないかと思います。遠藤在比日本大使も我々の努力はよくご承知でした。

今回の旅でずっと考えてきたことが二つあります。

一つは人材がどのようにして育つのか、成長するのか、ということです。

開祖さまが願主となられた鐘は、フレンドシップタワーだけです。碑文に南無釈迦牟尼仏、裏に南無十方分身諸仏の銘があります。仏さまに帰依し、一人ひとりが仏の使い・菩薩になってほしい、という願いが込められていると分かりました。だから、50年も続いたのだし、BCYCCとのホームステイなどお互いの交流での人の触れ合いによって、分身諸仏になっていくのだと思います。

立正佼成会も多くの人材がこの交流から育っていきました。かくいう私も、50年前の使節団のすぐ後に学林を受験し、以後いろいろな経験を積ませて頂きました。私にとりましても、原点であります。

一方バターンではBCYCCと協力して半島唯一の図書館を建設して教育に貢献したり、奨学金制度で504人もの有為な人材を輩出してきました。卒業生の中には校長先生や大学准教授や政府役人や経済人など幅広く活躍している人材が多数。まさにフレンドシップタワーは、見宝塔品の大宝塔そのものだと思いました。

つるされた鐘には開祖さまの以下のような祈りが、日本語と英語と現地のタガログ語で銘されています。

フレンドシップタワーの鐘の音は 戦いに倒れ給うた方々の冥福を祈り
フレンドシップタワーの鐘の音は 友好と平和を願う われわれの心の輪を広げ
フレンドシップタワーの鐘の音は 地上に寂光土建設の妙なる調べとなりますように

これは、サンゲを忘れずに続けること。「心の輪を広げ」交流し続けること。そして、「地上に寂光土建設」の青年による平和活動の原点であり、魂であること。

このことを開祖さまが願われていたのだと、50年前には十分には理解できなかったが、やっと分かった気がします。いいお手配を頂きました。

もう一つはなぜフィリピンの人、特にBCYCCやホストファミリーの方々は優しいのか、それはどこから来るのかということです。これは次回に続きます。