太龍寺奥之院 舎心ヶ嶽(しゃしんがたけ)空海像
空海との対面
夏休みに四国21番札所の太龍寺に出かけてきた、西の高野と言われる名刹である。ロープウェイを降りて登山15分、弘法大師空海が100日間修行された捨心ヶ嶽に空海像がある。実に爽やかで清々しいご尊顔に魅了された。
天才空海の息吹に接し、私は「教えを生きる」とはどういうことかと考えた。
そこである方に尋ねた。すると、「生きる」とは何かという問いが大切ではないかと返ってきた。いろいろなことを、どう感じて、どう心が動き、どのように身体が動くかを意識して生きること。そのことを大切に自在になることではないかと。
その後ハッとすることを教えられた。
無意識とは、頭の中が考えで一杯で、感情に持っていかれている時ではないか。逆に意識とは、今の自分をどう見ているかが整理されている時で、自分が制御されていて、今ここにいること。今自分が何をやっているかがわかること。自分を客観視できることでないかと。
私は無意識の時とは、何も考えずにボーっとしている時ではないかと考えていたが、逆に考えが一杯の時だと教えて頂き、新鮮なショックを受けた。
そういえば、かつてその方に、朝夕のご供養の時にいいアイデアが浮かんでくるので、メモ用紙を側に置こうと思うと話したときに、そんな集中しないご供養の在り方は考えられないと揶揄されたことがあった。
あらためて、無意識と意識を考えてみて、何も考えないようにご供養をあげるように勤め始めた。お経がより有難く感じられるようになった。そういえば、若い頃、「ご供養中は二念をつぐな。雑念が入る時は大声でお経をあげよと教えて頂き、実践していたなあ」と。いつか惰性になっていたことを凄く反省させられた。
空海像の清々しさとは程遠い自分を笑うしかない。
舎心ヶ嶽(しゃしんがたけ)の景色