「もう新しい車に代えてもらったら!」と娘たちが言う。
去年7月に買った車が3度目の故障をきたしてディーラーに引き取られてから、やがて1か月が経つ。「確かに、替えてもらったほうがいいのかもしれない」との考えが一瞬頭をよぎった。
購入して半年たった頃にエンジンがかからなくなった。数か月前にはドアが開かなくなった。今年の8月に駐車場に車を停めた際、今度はドアロックがかからなくなった。
ディーラーに修理を依頼して1週間が経った頃、社長さんから「原因がわからない。しばらく車を預かりたい」との話があった。大好きな車がいつ戻ってくるのだろうかという思いが日増しに強くなっていた。
娘たちの話を聞きながら、ふと思い出したことがある。
外科医だった義父が若い頃、タクシーの後部座席に乗っていて大型トラックに追突され頚椎を骨折。生死の境をさまよったあげく奇跡的に命をとりとめたものの、手足が動かない重度の身体障害者になった。父は生前、車椅子生活で診療をしながら、車は丈夫なのがいいと常々話していた。
振り返ると私自身も車の故障と縁が深い。
最大の故障は、以前の車で松山まで出かけたときだった。高速道路のサービスエリアでちょっとした不具合を感じたが放置。帰りの一般道で何かが焼ける匂いがして、ボンネットから煙が出てきた。たまたま車修理専門の方が同乗しており、「エアコンのスイッチを切れ!」と指示してくれたため大事に至らず、真夏の夜エアコンなしで無事に帰宅した。
ディーラーに見てもらうと、エアコンのコンプレッサーが焼き付いていると言われた。「もう新車に代えませんか」と言われたが、車が気にいっていたので修理してもらいその後も乗っていた。
購入して15年目の頃、徳島市民病院の交差点で一時停止したときにエンジンが止まり慌てた。エンジンはすぐにかかったが、さすがにこれはだめだと思い、今の車に代えたところだった。
ふと、自分は車の故障を招くような原因を背負っていると感じたのである。過去のことは知る由もないが、連綿と続く自身の過去・前世または自身にまつわる先祖等に何等かの原因があったのではないかと思った。
仏教では、過去に積んだマイナスの行いは、それなりのマイナスの現象が起これば消滅していくと教えられている。
車が故障したからと販売店を恨んで文句を言い、担当者を困らせるようなことをすれば、新たにマイナスの荷物を増やしてしまうが、故障を粛々と受け止めて修理してもらう姿勢を保っていれば、過去に積んだマイナスの荷物は少しずつ消えていく。
考えてみれば、幸いにして今まで重大な事故に遭わず事なきを得ている。今回は販売店で1か月近くも車を預かってくれており、それにより自分が過去に犯したマイナスの荷物が減っていく。担当者はきっと必死で原因を探してくれているに違いない。そう考えると、担当者の方々にむしろ感謝したい気持ちになった。
そんな心境を家内に話した次の日に車が戻ってきたのである。接触不良の箇所が一か所あり、見つけるのに時間がかかったとの説明だった。ディーラーの社長さんは深々とお詫びをされて代車を引き取り帰られた。
不思議なタイミングだと感じた。信仰をしていると不思議な出来事を経験することがある。
須見昌央